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人生朝露

人生朝露

湯川秀樹と荘子 その1。

まだ、書きたいことの半分くらいですよ(笑)。

とはいえ、一つの到達点。荘子と、
湯川秀樹(1907~1981)。>
湯川秀樹さんについて。

参照:Wikipedia 湯川秀樹
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E5%B7%9D%E7%A7%80%E6%A8%B9

言わずと知れた日本最初のノーベル賞受賞者・湯川秀樹さんは、おそらく『荘子』の日本における最大のサポーターでありましょう。湯川さんの著作を流し読みしても、2冊に一冊は『荘子』についての記述があります。

前回、
長岡半太郎(1865~1950)。 
長岡半太郎さんが『荘子』の記述から「東洋人でも物理学の分野でやっていける!」と確信して、後に原子核モデルを発表した、という話を書きました。

参照:長岡半太郎と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/005007/

>最近の中国古代の科学史の研究の成果が、長岡先生の調査結果を、どこまで裏書しているかについて、私はまだ詳しく検討していないが、少なくとも「当たらずといえども遠からず」といってよいであろう。
>先生は特に「荘子」が好きであったらしいが、私自身も「荘子」の愛読者である。そこには偶然の一致以上の理由があるに違いない。
>この講演の原稿の最後は、もしも調査結果が思わしくなかったと仮定した場合、どの道を択んだであろうかと問われたなら、「恐らく東洋史を攻究したらうと思ひます」という文章で終わっている。
>この数年来、日本や東洋や、さらには人類全体の歴史に対する関心が、とみに強まってくるのを感じている私は、この最後の文章にも「なるほど」と相槌を打ちたくなるのである。
(以上湯川秀樹 「創造への飛躍」長岡先生の休学(昭和四十二年二月)より引用)

この「長岡先生も荘子好きだったのか!」と驚いているのが湯川秀樹さんです。全く無縁であるはずの「物理学」と『荘子』の奇妙な一致。偶然なのか、必然なのか・・。

参照:長岡半太郎と荘子 その2。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/005117/

小川琢治 (1870~1941)。
もともと、湯川秀樹さんが生まれた小川家は学者さんの家系で、お父さんは地理学者小川琢治さん、おじいさんは紀州田辺藩の儒者、浅井南溟・・というバリバリのエリート。そして、湯川秀樹さんのお兄さんは東洋史にその名を轟かす貝塚茂樹さん、弟さんは中国文学者の小川環樹さんでありまして・・この環境からノーベル物理学賞を受賞する人が生まれたとは、想像しにくいですよね(笑)。

参照:湯川秀樹と『山海経』。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5119/

当然、湯川秀樹さんの少年時代の教育は、おじいさんのもとでの漢籍の書物の素読から始まります。小学校に入る前から。さらに湯川さんの場合には英文の雑誌や新聞も読んでいたようでして・・さすがに、学者さんばかりのお宅はハンパな教育をなさらない。いきなり、トリリンガル(笑)。湯川さんが最初に読まされた(文字の意味とかもいちいち辞書で引いて叩き込まれたようです)最初の本は四書五経のうちの『大学』なんだそうです。

二宮尊徳像 掛川市。
二宮金次郎さんが薪を担ぎながら読んでいる政治学の本です。そのあとは『論語』『孟子』に移って・・これが大変苦痛だったようです。

湯川秀樹(1907~1981)。
『しかし、儒教は、私には「押し付けられた思想」のように思われた。私がそれを必要としたのではない。批判力もないうちから、与えられたものである。その事実が、まず私を懐疑的にする。(中略)私はあてもなく、何かを探し求め出した。父の書斎で「中庸」を読んだ。これは、やや哲学的だった。私は父がなぜそれを習わせなかったに疑問を持った。それから老子を発見し、やがて荘子に入っていった。』

『老子や荘子の思想は自然主義的であり、宿命論的であった。しかしそこには、一種の徹底した合理的なものの考え方が見出されたのである。一つにはこの点が私にアッピールしたのである。というのは、私は、小さい時から、中途半端なものの考え方には満足できなかった。』
(以上 「旅人 ある物理学者の回想」湯川秀樹著 より引用)

旅人 湯川秀樹著。

参照:楽天ブックス 「旅人 ある物理学者の回想」湯川秀樹著 角川ソフィア文庫
http://item.rakuten.co.jp/book/136497/

・・・インドのネルーの話から「荘子と進化論」について思うことをつらつら書いていますが、「荘子」と「進化論」を同時に享受した日本人がいました!大正十一年の湯川秀樹さんです!

参照:ネルーの不思議な証言。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5002/

『中学生の私は、一方では老子や荘子の逆説を痛快に感じながらも、何かそれですまされないものがあることを否定できなかった。私の中には青春の血が流れはじめていたのかも知れない。
 確か一中の四年生になった時だと思う。生物の時間に進化論の初歩的な解説を習った。』(以上「旅人」より引用)

ドンピシャです!!(中略)なしですよ!
運命を感じましたね。ま、この発見を先月にしてから今頃文字にしてますが(笑)。

・・・しかし、少年期の湯川さんは「進化論」の理解について悩んでいます。どうもラマルクの「用不用説」の方に傾斜していたようで、このことは昭和五十年くらいまで続いていたようです(「外的世界と内的世界」という本の「長年の疑問」というエッセーにあります)。(ちなみに、ダーウィンの「進化論」とラマルクの「用不用説」の差異を勝手に誤読して、いきなり「進化論はなかった」とするのがファッキンなキリスト教原理主義者の常套手段なんだそうです。「南京事件がなかった」バカと同じ構図です。)

『進化論の話を聞いて帰ってきた私には、キャッチ・ボールや砲丸投げは、全然念頭になかった。何度も何度も庭の中を回りながら、生物の進化の不思議を思いめぐらしていた。自然淘汰が起きるためには、生まれたときから適者と不適者の間の差異が存在しなければならない。成長してからの違いを問題にするなら、ラマルクの説と同じになる。そんなら、そういう生まれつきの差異はどうして出来たのか。この点についての先生の説明ははっきりしなかった。しかし、どう言われたにせよ、中学生の乏しい知識で、いくら考え込んでみても、進化論が徹底的にわかるはずはなかったのである。』

参照:Wikipedia ダーウィニズム 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0

Wikipedia ラマルキズム(用不用説)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%BA%E3%83%A0

どうやら、さらに「突然変異説」についての説明が当時の授業ではなされなかったこと、生物の進化を集団的ではなくて個別的にしか考えなかったことなども要因であったようです。

湯川秀樹(1907~1981)。>
『しかし、ダーウィンの進化論を理解しようとして悩んだという事実は、私の精神の成長過程の中で、重要な意味を持っていたように思われる。私の潜在意識は、このころからそれまでとは違った方向へ向かって、活発な反応を示しはじめていたらしいのである。
 少年期の感傷から、青年期のロマンチックな心情へと変貌し始めていたらしい。
 後になって考えて見ると、当時の私が人生の空しさを知りつくした人の知恵を代表する老子よりも、雄大な空想に自分で酔っているような荘子の方に惹かれたのも、故あることであったろう。私の身体にも青春の血が流れ始めていたのである。一日も早く一中を去って、お隣の三高に入りたいとう気持ちが強くなりつつあった。
 アインシュタイン博士が日本を訪れたのは、それから間もなくであった。私の中学四年生の二学期も終わりに近いころであった。』(以上「旅人 ある物理学者の回想」湯川秀樹著より)

・・・はっきり言うと、サンプルが悪かった(涙)。湯川さんの場合、進化論を認めるとか、認めないとか、荘子が近いことを言っているとか、そういうレベルではなくて、もう二段跳びくらいして思考が先に行っちゃっています。どんだけ賢いのよ(笑)。

アインシュタインの来日に影響を受けた湯川少年はどんどん物理学の世界にのめりこんで行きます。

荘子との距離もどんどん離れていきます。しかし、続きがあるんです。

追記:続きはその2以降へどうぞ。

参照:湯川秀樹と荘子 その2。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/005009/

今日はこの辺で。


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